山田繊維のある街 | |||
栃木県足利市(とちぎけんあしかがし)は、北関東の群馬県と栃木県の県境にある栃木県側の街です。 当社からは、歩いて数分で県境にいけるほど群馬県とのつながりが密接な場所です。 周囲は広い田園風景に囲まれ、すこし行くと渡良瀬川(わたらせがわ)の清流が眺められます。 北は日光男体山や那須の連山などの山々を背にして、南は広大な関東平野が地平線まで続き、良く晴れた日には遠く富士山も見えます。 東は筑波山、西は信州の浅間山が遠望でき、間近には上州の赤城山がせまっています。 赤城山からは、晩秋の頃、強い赤城おろしが吹きぬけ、田畑には赤土の中に大きな霜柱ができます。 二条大麦の栽培が盛んで東武伊勢崎線の車窓からは黄色い絨毯が広がる光景を見ることが出来ます。 都心までは、高速道路足利インターや東武足利市駅から1時間ほどで行ける距離にありながら、大自然の良好な環境が今も損なわれずに残る素敵な町です。 |
|||
大きな地図で見る |
|||
足利市と繊維産業 | |||
|
栃木県足利市は、下野国足利郷(しもつけのくにあしかがごう)と呼ばれていた鎌倉時代の頃に急速に発展し、この郷の領主だった足利氏は鎌倉幕府より源氏(げんじ)の頭領と認められ発展しました。 力をつけた足利氏は、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)の代になってから鎌倉幕府を倒し、室町幕府(むろまちばくふ)の初代将軍となりました。 この発展の基礎を作ったのが足利の織物と言われております。 吉田兼好(よしだけんこう)の徒然草(つれづれぐさ)にも、鎌倉の有力者達が、毎年足利から絹織物(きぬおりもの)が届くのを心待ちにしている話が出てきます。 足利を始め北関東のこの地域は古くから絹織物が盛んでした。 絹の原料は蚕(かいこ)の繭(まゆ)です。この蚕は、桑(くわ)の葉を食料にしています。 この一帯では桑の木をそだてるのに良い土壌と気候があり、桑の葉が良く育つことから養蚕(ようさん)が盛んになったと言われています。 近年になって、足利銘仙(あしかがめいせん)と呼ばれる織物が盛んになり、また近代化に積極的だった足利市内の繊維各社はトリコット製品の生産にも力を注ぐなどの近代化を推進し、繊維の町としての足利の名は全国に知れ渡りました。 国内有名ブランドの婦人服を見て頂くと、多くは日本製と明記されております。 安価な輸入品があふれる現代でも、いまだに高い技術を要する高級婦人服は、日本国内でしか生産できないのです。 その高級婦人服の生産には、高い機械縫製技術と長年の織物伝統技術が融合した足利市が最適なため、多くの有名ブランドの高級婦人服がいまでもここで生産されております。 当社でも、長年のあいだ高い技術力を評価され、一流メーカーより高級婦人服やブランド子供服の製造を任されておりますが、その高い職人技をそのまま使い、太極拳長拳ユニフォームを独自ブランドで皆様にお届けしております。 |
||
足利市と芸術文化 | |||
|
足利市には、平安時代に開校されたと伝わる日本最古の学校、足利学校がありました。 現在、足利市教育委員会の管轄で史跡の上に忠実に再現された足利学校の姿を見ることができ、足利氏邸宅跡の国宝鑁阿寺(ばんなじ)とともに、毎年多くの観光客が訪れています。 足利市民はこの足利学校を「がっこうさま」、鑁阿寺を「だいにちさま」と、それぞれ敬称で呼び親しんでおり、歴史文化の町である事を多くの市民が誇りとしています。 この町を歩くと、地元書家の相田みつをが筆をとった商店や割烹の看板が いたるところに並び、お店の中には相田みつをがデザインした包装や、相田みつをが名付けた商品が並ぶなど、さながら町中が相田みつを美術館のような雰囲気があります。 残念ながら著作権の関係で、その看板や商品をここでご紹介することはできません。 ぜひ直接足利市を訪れて皆さんの目でご確認ください。何の変哲もない裏通りに、突然相田みつをの書いたお店の看板を発見して驚くと思います。 足利市と有田焼は、全く縁がありませんが、収集家の栗田氏が集めた日本最大の有田焼展示の美術館、栗田美術館は、焼き物を趣味とされる方には必見の美術館です。 このように芸術文化と歴史の町である足利市では、伝統的に芸術分野に理解を示す文化人が多く、それが基礎となって足利市の中心部にはデザインの専門学校ができ、全国からデザインを学ぶ多くの若者達が集まっております。 この伝統が足利の繊維製品にも色濃く反映しており、斬新で芸術性豊かなファッションの発信源としての地位を築いてきました。 |
||
|
|||
|
|||