被災地からのメール

 02 Apr 2011 01:32:10 pm

震災より2週間と数日経った3月29日
宮城県に住むお客様より「無事です」とメールいただきました。

震災時の様子を克明に知らせていただいたので
許可を得てここで全文を紹介させていただきます。

以下「宮城県若林区のSさんよりのメールです」

ご心配いただきましてありがとうございました。
うちの家族、両親と弟、あと親戚も無事でした。一番キケン
だったのは一つ年下の弟で、まさに危機一髪、そして奇跡が
いくつも重なって無事に帰って来れたんです。
 
 地震の時、弟は海産物を石巻で積んでいたようです。
4tの冷凍車で運び、福島の郡山まで行く予定で。積み終わって
国道に出るとトラックは目線が高く、前方が良く見えますが、
はるか先の方で、乗用車がタテに持ち上がり「事故か?」と思ったらしい
のですが、その上に更に車が重なってこっちに寄って来たそうなんです。
津波ですよね。真っ黒い波だそうで、慌ててその車の列を出ようとしたら
しいんです。丁度右にだけ曲がれる場所にいたので、前か後ろの車に
少し引っ掛けながらも曲がり高台の住宅地へ逃れたそうです。
その場所の1台前でも1台後ろでも曲がれなかったと言うので、何という
タイミングのよさ!だから国道で動けなかった車たちは波に飲まれたそうです。

でも自分のトラックも半分まで水に浸かり、すでに目の前を2人
の遺体が流れていった、という・・・ここまでで一旦ケータイが切れて、
音信不通になってしまったのです。だから会えるまでは家族3人でずっと
心配して、そのあとちゃんと避難できたのか、もう夜も眠れませんでした。

 弟はその後、少し津波が収まった後トラックへ戻ってみると女性が木材の
上に乗っていてトラックのドア付近で助けを求めて手を振ってたようで、弟は
体半分水に浸かりながら女性を負ぶって引き上げたようです。
1キロくらい流されてきたようで、くつも無く、恐怖と寒さで声も出せず、全身震えていた
らしく、弟も水の中を探りながらガレキに足をとられながら必死だったようですが
成人男性でも5分もたないくらい水が冷たかったそうです。ひざがガクガク震えた
と言ってました。その光景を見ていたアパートの住人が手を振ってここに避難する
ようにと声をかけてくれたようで、そこに3日間お世話になっていたようでした。
そのアパートは3階だったので無事でしたが、1階は水被ったとの事でした。
弟は丁度トラックにさつま揚げとかウニとかつぶ貝を箱でたくさん積んでいたらしく、
更に上のほうにある避難所にほとんどをあげたようで、アパートの住人夫婦と近場
から逃げてきた人数名と弟、合わせて8名で豪華海産物の食事を取り、おふとんで
寝ることができたそうです。

弟の会社は塩釜という所にあり、自家用車はまず流さ
れてると思って諦めていたようですが奇跡的に会社も車も他のトラックも無事でした。
周辺の建物が結構ひどく破壊されていたようですが、弟のいる会社は少し地盤が
高いんでしょうね。
 私は当時、会社の事務所にいて、夕方早めに帰宅してすぐ近くの小学校の体育館
に避難して両親と合流できたので、安心でした。一晩体育館で過ごしましたが、寒くて
眠れません!床も固くて!先週まで1週間カゼをひき、昨日から会社復帰しました。

近くを東部道路(高速)が走っていて、そのわき道が通勤ルートなのですが、このカベ
の反対側まで津波が来たので、高速がなかったら、我が家の沖野地区も浸水してた
でしょうね。今日、高速乗って景色が右と左で違うのでゾッとしました・・・・。

現在の状況は、普段、車で通勤なのですがガソリンないので会社の人に寄ってもらって
相乗りしながら送り迎えしてもらっています。
 太極拳も全くやれてませんし、強化練習もできません。
体育館施設が避難所や給水所などで公共の場ですから、個人の利用がムリですね。
  
 支援物資は、結構あちらこちら、会社の他の支店からいただき、すごく助かってます。
今は特に不自由はないですね。早く都市ガスとガソリンが回ってきてほしいですね。

本当に色々な方にあたたかい言葉をかけていただき、有難く思います。
復興に向けてこれから元気を取り戻して、フッカツしたいと思います。

何だかまとまらない話ですみません。山田さんもお体に気をつけてください。

では、またそのうち!


以上です。
彼女は全日本とスポレクの代表になっています。
一日も早く普通の生活を取り戻して練習できる日が来る事を願います。
東日本の復興をみんなで応援しましょう!!!

カテゴリー : General Posted By : tai-chi |